1155680 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

その3

 2005年02月05日 古代のカラシニコフとT-72

 このところ博士論文に関連して騎馬民族スキタイ人に関する資料を漁っている。スキタイ人というのはいまの国名で言えばウクライナあたりが原郷であり、その生活は主に遊牧だった。時代でいうと紀元前800年頃から300年頃の間に活躍していた。研究書の多くはロシア語で刊行されているが、ありがたいことに(独露関係強化のおかげで)ドイツ語でかなりの部分がカバーできる(ドイツ隊はロシア連邦のトゥーヴァ共和国でも発掘している)。なお日本にも優れた研究者が何人かいる。
 中東専門の僕がなぜスキタイを追っているかというと、トルコやイランからもスキタイの遺物(鏃=「やじり」や短剣など)が出土するためである。
 ここ数日しつこく引用しているヘロドトスの「歴史」(紀元前5世紀半ばの書物)には「スキタイが(西)アジア全土を28年間支配した」と記述されている(巻1・106)。スキタイ人はコーカサスから侵入してメディア(イランにあった王国)軍を破り、パレスチナまでを席巻したという。その支配は投げやりで略奪をこととし、最後はメディア人に騙まし討ちされて北方に引き上げたという。また旧約聖書「エレミヤ書」にも、堕落したエルサレムに神が遣わした「北方からの災難」として登場する。
 粘土板や石碑に楔形文字で書かれた紀元前8世紀後半(アッシリア=今のイラク北部)の史料によれば、「ギミッリ」「アシュクザイ(イシュクザイ)」という名前で言及される集団が登場するが、それぞれヘロドトスの伝える「キンメリオイ」「スキタイ」に相当することはほぼ間違い無い。騎馬民族キンメリオイは紀元前714年に小アジア(トルコ)に侵入し当地のフリュギア王国やリュディア王国を攻撃、リュディア王はアッシリアに応援を求めた。アッシリア王エサルハッドンは紀元前672年に娘をスキタイ王に嫁がせてこれと同盟、リュディアにスキタイ人を援軍として送ってキンメリア人と戦わせてこれを撃破したという。騎馬民族同士を戦わせ、毒を以って毒を制したことになる。
 キンメリア、スキタイ共に機動力に優れた騎兵を主力とする強力な軍隊をもち、歩兵中心の中東の帝国にはなす術が無かったらしい。なおスキタイ人は紀元前6世紀末頃からギリシャでも傭兵として出現しており、ギリシャの壷絵に盛んに描かれている。その姿はというと独特のぼってりした頭巾(革製?)をかぶり、顔はひげ面、腕と足にぴったりフィットしたレオタードのような服を着ている。騎乗に便利なズボンと筒袖を表現したものだろう(ギリシャ人はゆったりした服を着た)。現代の我々が日常着用するブーツやベルト、そしてズボンは本来騎馬民族の風俗である。

 上に書いたとおり、スキタイの遺物とされるのは青銅製の鏃、ヘロドトスが「アキナケス」という名称で呼ぶ柄と刃の部分が一体に造られた短剣、様式化された動物(ヤギ、鹿、ヒョウ、グリフォン)模様の装身具や留め金、そして馬具(手綱を通すために馬に噛ませる「はみ」)である。またゴリュトスと呼ばれる弓(湾弓)入れや矢筒、中国語で「フク」と呼ばれる台のついた鍋も見られる。
 特に独特なのは鏃で、それ以前の鏃が茎(なかご)という突起で矢柄に留めていたのとは違い、鏃の根元がソケット状になっており矢柄をそこに差し込んで留めるようになっている。また小型で、逆刺(かえし)がつき、三翼のものが多いという特徴がある。従来の鏃が大型で鉄製、茎式であるのとは鮮やかな対照がある。遊牧民であるスキタイ人の弓は動物の腱を使った弾力の強い小型弓で(余談だが対照的なのは竹製の日本の弓で、世界最大)、鏃が小さいのは発射初速を上げるのと軽くして速射性を高める目的があったのだろう(小さい分貫通力は劣る)。また逆刺がつきソケット式なのは、刺さったときに抜けにくくするのと無理に抜くと体内に残るようにして、敵へのダメージを大きくする目的がある。二翼ではなく三翼にすると、作る手間が面倒になりまた貫通力が落ちるという難点はあるが、刺さったときの傷口が大きくなるという利点がある。
 スキタイ人は馬を縦横に駆って矢を至近距離から敵に次々に浴びせ掛け、あとは駆け去るという戦法だった。稀にだが馬上から刀を振るうこともあったようだ。槍ももっていたが、当時は鐙(あぶみ)が無いので、馬を駆けさせつつ手に持ったままの槍で敵を突くことは出来ず(刺突の衝撃で落馬する)、刺した瞬間に手放したのだろう。

 こうした遺物のセットを「スキタイ系遺物」と呼ぶが、その故郷であるウクライナだけではなくトルコ、イランといった中東でも出土する。それどころか似たような遺物は西はドイツ、東は中国のオルドス地方(黄河が大きく湾曲する北側)にまで広く分布している。
 もちろんこれはスキタイという単一集団の遺物ではなく、中国北方では匈奴とか東胡、中央アジアではサカとかサウロマタイ、マッサゲタイと呼ばれている、紀元前8世紀から3世紀にかけての様々な集団に共通する遺物であるのだが、この集団全てに共通するのは遊牧を生業とした(部分的に農耕もあったが)騎馬術を得意とすることである。紀元前1000年頃に騎馬という強力な移動手段を得て、中央ユーラシアの住民は遊牧に特化してその行動範囲を劇的に大きくした。彼らは自分の軍事的実力に気付き、南下して都市を略奪したり、傭兵として雇われるようになった。
 中東や中国、ギリシャといった農耕・都市文明のほうは当初このスキタイ式騎馬戦術に翻弄されたが、やがてその真似をして騎兵戦術を取り入れるようになる(メディア王キュアクサレスや中国・戦国時代の趙の武霊王の「胡服騎射」の逸話が有名)。特に紀元前6世紀に中東を統一したアケメネス朝ペルシアは、軍制は全くスキタイのそれに倣ったものだったし(鏃まで真似をした)、それを滅ぼしたアレクサンドロス大王の軍隊の最大の攻撃力も騎兵だった。
 以降、銃火器が登場するまでのおよそ1000年間、いたちごっこのような様々な工夫こそあったものの、騎兵は戦争の主役であり続け、それだけに政治的な役割も大きかった。またもっとも優秀な騎兵を生み出すユーラシア中央部は、常に世界史の大変動の軸となった。5世紀にローマ帝国が滅びるきっかけとなったのもフン族の西進であるし、トルコ人は西進して中東やインドに浸透し、政治的実権を握った。こうした騎馬民族が繰り返し中国に浸透して征服王朝(五胡十六国や北朝のみならず、隋唐も鮮卑の子孫である)を樹立したのは律令国家を目指した日本の歴史にも関係があるし、ついにはジンギスカンやその子孫率いるモンゴル軍はユーラシア大陸の大部分(日本と西欧、南アジアを除く)を統一して東西交通を活発化させ、16世紀以降のヨーロッパ人による大航海時代のきっかけを作った。

 スキタイなどの騎馬民族が活躍した地域の多くはソ連領となり、今はロシアやGIS諸国になっている。H・J・マッキンダーは1904年に「ジオグラフィカル・ジャーナル」に「歴史の地理学的旋回軸」というタイトルの論文を発表し、地政学のはしりとされている。彼の地政学は、帝国としての性格を隠蔽しかつ「共産主義」という看板を掲げて世界戦略を進めたいソ連とその支持者(共産主義者)に激しく攻撃されたが、その指摘するところはスキタイ以来の中央ユーラシア=「ハートランド」の世界史的役割を的確に突いている。
 ソ連はかつて東欧やモンゴルをその支配下に置いたし、現代でもシリア、イラク(フセイン政権)、イラン、東欧、中国、北朝鮮といった諸国の兵器の多くはソ連・ロシア製かそのコピーだが、僕にはソ連製自動小銃カラシニコフはスキタイの鏃に、ソ連が各国に輸出したT-34やT-72といった戦車はスキタイの騎兵にタブって見える(ソ連の戦車と匈奴を同一視する視点は司馬遼太郎が既に開陳しているが)。ロシアは「G8」に入れて貰っているが、それはその経済力ではなく(最近石油や天然ガスの輸出が好調ですが)、軍事力(もしくは兵器開発力)によるのは誰もが認めるところだろう。
 科学技術の発達により経済や戦争は古代と現在とではもちろん違うのだが、人間が地球という限られた空間で地面に両足をついて立って生きている以上、基本的にこの構造は変わらないのでは無いかと思う。ヘロドトス「歴史」に記されたスキタイの焦土戦術や、司馬遷「史記」に記されている、冒頓単于率いる匈奴軍が用いて漢の高祖・劉邦を事実上の降伏に追いこんだ後退戦術は、ヨーロッパでナポレオンやヒトラーを一敗地に塗れさせ、またちょうど100年前に満州で日本軍を苦しめた(日本軍は血みどろになりながら追い縋ったのだが)ロシア軍の戦法と、奇妙なほど一致する。何よりロシア軍のコサック騎兵は有名だったし、ソ連・ロシア軍は機動力・攻撃を重視して戦車を大量に配備している。

 中央ユーラシアが世界史に果たした役割については、杉山正明(京都大学教授)著「遊牧民から見た世界史-民族も国境も越えて-」日本経済新聞社刊がとても読みやすく、また民族問題についての示唆に富み、是非とも一読を勧めたい。
 ついでにいえば、僕は中華人民共和国というのは共産主義という外来思想の人々が樹立した「征服王朝」のようなものではないかと思っているのだが、それは長くなるのでまたの機会に。


 2005年02月24日 猫は文明と共に

 今朝の夜中(多分2時か3時くらい)、当然寝ていたのだが、電話が鳴った。こんな夜中に誰だよ?と寝ぼけながら思ったが、こんな夜中にも関わらず電話をかけてくるのだから急用、もしかして不幸な知らせだろうか?とぼんやり思いながら電話に出た。そしたら日本の某大手テレビ局に務める後輩のT君だった。
 とりあえず不幸の電話ではないらしい。「今真夜中だぜ」と文句を言ったら「あ、やっぱりそうか」とあまり悪びれる様子も無い。まあこの人は時間の感覚がちょっと変だというのは昔から知っているから気にならない(ドイツにまで電話をかけてくるのは珍しいが)。夜討ち朝駆けのマスコミは彼にとっては天職かもしれんなあ。ようやく本題に入る。
 「artaxerxes(僕の名前)さんって、バステトっちゅう古代エジプトの神様知ってます?」「ああ知ってるよ」「その画像持ってませんか?」と深夜とも思えない変な会話だった。
 なんでも彼の知り合いの雑誌編集者が古代エジプトの神バステトの画像を探していてT君に頼んだのだが(どういう雑誌だろう?)、今日の締め切りになって、あてにしていた人が著作権とかで急に画像が出せないというのであせっているらしい。僕のドイツの大学とかに収蔵されてないかということだった。そんなものないので日本の知る辺を挙げて電話を切った。ふう。
 
 バステトは人間の女性の身体に猫の頭を持った女神で(もともとは雌ライオンの頭だったらしいのだが)、手に籠と楽器をもっている。愛欲と豊穣を司り、ギリシャ神話の女神アルテミスにあたる。雌猫そのものの姿で表現されることもある。このバステト信仰もあって古代エジプトでは猫は大切にされていた。
 おととい2月22日は「にゃんにゃんにゃん」で「猫の日」とされているらしいので、猫の話など書いてみよう。一部ライコス日記時代に書いた内容と重複する。

 猫が家畜化されたのは古代エジプトと一般にいわれている。ところが実際には確固とした証拠は無い。発掘で猫の骨が出ることはほとんど無いからである。犬の骨は僕も発掘で見たことがあるが、猫はまずない。イエ猫の祖先はヤマネコだが、ヨーロッパ、リビア(アフリカ)、アジアの広範囲に様々な種類が分布する。
 ヨーロッパのものは大型で気も荒く、リビアヤマネコが家畜化されたのが現在の家猫の元と考えられるが、森に覆われたヨーロッパやアジアに比べ、人間も動物も水のある限られた地域に集中する中近東では動物と人間の距離も近く、家畜化されるきっかけはより頻繁だったのだろう。ともあれエジプトでは紀元前3千年紀半ば頃には猫が飼われるようになったらしい(絵画資料などによる推定)。当初はネズミ退治などの目的もあったかもしれない。旧石器時代末期に家畜化された犬などに比べて随分遅いが、猫は農耕・都市生活、すなわち常に文明とともにある家畜である。世界最古の文明というとメソポタミア(イラク)だが、猫の存在ははっきりしない(「ギルガメシュ叙事詩」に出てくるともいう)。
 さてエジプトでは紀元前2000年頃の遺跡から猫を擬人化した落書きや物語が発見されている。猫が人間みたいにビールを飲んだり、王様のように振舞ったりしている(「鳥獣戯画」みたいだ)。また戦車(馬車)に乗ったネズミ軍が徒歩の猫軍を蹴散らす場面が描かれたりしているが、これは現実とあべこべを書いた一種の風刺画である。トルコからも猫の頭の形をした土器がアッシリア商人植民地の遺跡から出ているようだから、家畜としての猫はその頃(紀元前二千年紀初頭)には中東全体に広まっていたらしい。その頃にはむしろ愛玩動物としての性格が強くなっていただろう。
 
 さて上に書いたバステトの話になる。もともとライオンの頭を持っていた女神バステトは、やがて害獣であるネズミを駆逐する大事な益獣だった猫として表わされるようになった。エジプト第22王朝の頃(紀元前900年頃)からバステト信仰は盛んになり、猫が神格化され大切にされるようになった。バステト信仰はヘレニズム時代(紀元前4世紀末)までエジプトで大流行する。
 ギリシャの歴史家ヘロドトスは紀元前5世紀の人だが、古代エジプトのバステト信仰を目の当たりにしている(「歴史」巻2、59、60、66、67節)。理由のいかんを問わず猫を殺したものは死刑、また家猫が死んだらエジプト人は眉を剃り落として喪に服したという。火事が起きたら猫が火に飛び込まないように厳重に見張ったとも記している。バステト信仰の中心地はエジプト北部(ナイル・デルタ)にあるブバスティスという町の神殿で、1年に一度開かれる祭礼はエジプト最大のもので、70万人もの老若男女が踊り歌いながらブバスティスに集い、いけにえを捧げ盛んに酒を飲んで無礼講を繰り広げた(この祭礼での消費量が年間消費量の過半だったという)。
 エジプト内で死んだ猫の遺骸は全てブバスティスに集められ、そこでミイラにされた。この時代の猫のミイラは非常に多く、世界中の博物館で見られるが、ある記録では19世紀に肥料にするため猫のミイラ18万体が盗掘されイギリスに輸出されたという(人間のミイラは漢方薬扱いだったが)。この数字は俄かには信じがたいが、いかに大量の猫のミイラが製作されたかを窺わせる話ではある。

 このように家猫は中近東の原産だが、中東文明の交易網が広まると共に他の地域にも広まっていた。ネズミが船の積荷を齧るのを防ぐため、猫を乗せていったという事情もあるようだ(そういえばオスの三毛猫は航海のお守りになるともいうし)。ヨーロッパには地中海交易を牛耳ったフェニキア人もしくはギリシャ人がもたらしたといい、ローマ時代には猫が飼われていた。ただし愛玩動物としてであり、むしろ希少な動物だったようだ。またさらに北方のケルト人にも、猫は地中海起源の珍しい愛玩動物として飼われていたらしい。
 やはりインド洋の海上交易を通じて、紀元前後にはインドにも猫は伝わった(陸路説もあるが、海上交易のほうが必然性があると思う)。さらに仏教経典などとともに漢代には中国にも伝わった(周代の「礼記」に猫が登場するというが家猫のことだろうか?)。基本的に飼い猫は人間が連れて船で他の地域に拡散したようだ。東南アジアや中国には野生のヤマネコがいるが、猫の家畜化はそれ以前には独自には起こらなかったらしい。なおアメリカ大陸には16世紀にスペイン人がもたらした(馬も同様)。
 イスラム教の開祖・預言者ムハンマド(570?~632年)は大の猫好きだったといい、「ムエッザ」という名前の猫を飼っていた。ある時、礼拝の時間に猫が彼の袖の上で寝そべっており、その眠りを妨げないために袖を切って礼拝に赴いたという噺もある。「猫愛好は信心の一部」という諺さえある(一方アラブ世界では犬は嫌われた)。今でも中近東では猫は人気のペットで、「ルールー」(真珠)、「マルジャン」(珊瑚)、「ミシュミシュ」(アプリコット)などという名前が一般的である。
 そういえばアラビア語で猫を「コット」もしくは「キット」というのだが(トルコ語では「ケディ」)、発音がよく似ている英語の「キャット」やドイツ語の「カッツェ」はアラビア語起源なのだろうか?(ただの偶然かも)。あとどういう偶然か、アラビア語(文字)で「猫」と書くと尻尾を立ててうずくまる猫の姿に見える。
 一方ヨーロッパでは猫は魔力をもつ動物としてあまり好まれなかった。時々起きた魔女狩りの時代には猫が人間に処刑されたこともある。ヨーロッパで猛威を振るったペストはネズミが媒介するということを知らず、その天敵をせっせと退治していたのである。気候や環境のせいもあるだろうが、今もヨーロッパ(特にアルプス以北)に猫は多くないし(野良猫が少ない)、ペットとしても犬のほうが好かれていると思う。
 黒い猫が災いをもたらすという迷信はヨーロッパだけでなく中近東にもあるが(今は逆みたいですね)、今僕の実家ではオスの黒猫を2匹飼っている。

 日本にもヤマネコはいたが、やはり飼い猫は文明とともに海を渡って来た。その時期ははっきりしないが、仏教が伝来した6世紀頃ではないかと言われている。仏教経典をネズミが齧らないように船に猫を積んできたのだろう。
 しかし猫はヨーロッパ同様、日本にはなかなか広まらなかったようで、珍しい愛玩動物とされていた。室町時代の絵巻物には猫を紐でつないで室内で飼っている様子が描かれているが(逆に犬は放し飼い)、それ以前も概ねそんな感じだったろう。兼好法師(14世紀の人)の「徒然草」には、猫が年をとって化けた「猫又」という妖怪におびえる人の話が出てくるが(第89段)、ヨーロッパ同様、猫は何らかの魔性をもつものと見られていたようだ。
 猫が放し飼いになるのは江戸時代になってからで、5代将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」には「猫を繋いで飼ってはいけない」という条項があるという。ともかく猫の放し飼いが一般化すると共に野良猫も増えるようになった。
 日本の猫は尻尾の骨が曲がっていたり途中で切れていたりして「ジャパニーズ・ボブテイル」として世界的に有名だが、あれも本来はオランダ人が東南アジア産のそういう猫を連れてきたものが日本に土着したらしい。その証拠にボブテイルは日本では東に行くほど少なくなり、これはオランダ船が入航した長崎からの距離に比例するというのだが・・・、本当だろうか?。少なくとも中近東の猫は尻尾が長くすらりとしている。

 僕は猫が大好きで思い出話も多いのだが、長くなるので別の機会に。自分の家を持ったら是非とも猫が飼いたいので、猫アレルギーの人とは一緒に住めそうに無い(猫好きの人の猫アレルギーは可哀相だ)。


 2005年04月28日 パンイオニオンは何処に

 夜古典考古学のほうの講演会を聞きに行く。講師はボッフム大学のハンス・ローマン教授。タイトルは「パンイオニオンの発見」である。
 パンイオニオンというのは、紀元前7世紀頃、現在のトルコのエーゲ海沿岸部にあたるイオニア地方にあった12のギリシャ人都市国家が共同体として設けた聖所である。最近すっかりご無沙汰していたヘロドトス(紀元前5世紀のギリシャの歴史家)の「歴史」にその記述があるので(巻1の141~148節)、イオニア地方とパンイオニオンに関する記述を抜粋してみる(松平千秋訳による岩波文庫版)。

「さてパンイオニオンを共有するこれらイオニア人であるが、我々の知る限り世界中で彼らほど気候風土に恵まれたところに町を作っている者は他にはいない。イオニアより北方の地域も南方も、・・・・一方は寒気と多湿に悩まされ、他方は高温と乾燥に苦しむからである。
 これらのイオニア人の話している言葉は同一のものではなく、4つの方言に分かれている・・・・」
「・・・前に挙げた12の町(ミレトス、ミュウス。プリエネ、エフェソス、コロポン、レベトス、テオス、クラゾメナイ、ポカイア、サモス、キオス、エリュトライ)だけは、この名称(イオニア)に誇りをもち、自分たちだけで聖地を定め、これをパンイオニオン(全イオニア神社)と名付けたが、他のイオニア人(注・アテネなど)には一切この聖地にあずからせないことを議決した」
「パンイオニオンはミュカレ山の北斜面にある聖域で、イオニア人が共同して「ヘリケのポセイドン」に捧げたものである。ミュカレは大陸から西方サモス島に向かって伸びている岬で、イオニア人たちは例の町々からここに集まり、「パンイオニア(全イオニア祭)」の名で呼んでいる祭りを祝うのである」

 「ミュカレ山」というのは現在のディレキ半島にあたる。潅木と岩山に覆われた急峻な岬で、その先端にサモス島がある。現在はミュカレ山はトルコ領、一衣帯水のサモス島はギリシャ領になる。海はあくまで青く美しい。今は観光開発されてプライベート・ビーチやヨットの港などが多くある保養地になっている(リゾート地として有名なクシャダスも近い)。僕は毎年トルコに行っているが、その行き先は荒涼としたトルコ中央部の高原地帯で、こうした沿岸部とはまるで趣が違う。一度くらいこういう海岸で海水浴しながら調査してみたいものだ。
 このミュカレ山の南には古代には大きな湾があった。その湾に面する形で古代都市ミレトスとプリエネがあった。特にミレトスはエフェソスと並んでイオニア地方の中心的な都市として栄えていた(マイアンドロス川の運ぶ土砂によってこの湾はローマ帝国末期頃には埋没してしまい、ミレトスやプリエネは衰退してしまった)。哲学者タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス(共にミレトス出身)、ピタゴラス(「ピタゴラスの定理」で有名。サモス出身)、アナクサゴラス(クラゾメナイ出身)など、イオニア地方はギリシャ古典時代初期の哲学者を輩出している。またややのち(紀元前3世紀)のことだが、「快楽主義」と訳される「エピキュリアン」の語源となった哲学者エピクロスもサモスの出身である。東方の中近東との交易・海運業などで得た富がこの文化を生み出したのだろう。

 イオニアというのは元来ドーリア族、アイオリス族、アルカディア族などと並ぶギリシャ人の部族名だったが(アテネもイオニア族なので、アテネ式の建築様式を「イオニア式」と呼んでいる)、多くは現在のトルコのエーゲ海岸に住んでいたのでいつしか地方名になった。イオニア人がギリシャ本土から現在のトルコのエーゲ海岸に移住したのは紀元前11世紀頃からだという。ミュカレ山ではそれ以前の後期青銅器時代の土器なども採取されているが、不思議なことに同じ時代に地中海東部に広範に輸出されたミケーネ土器は見当たらないという。なおヒッタイト帝国時代(ムルシリ2世、紀元前14世紀後半)の粘土版文書にはミュカレ山と思しき記述があるというが、本当だろうか?
 紀元前6世紀の半ば、中東でアケメネス朝ペルシアが勃興すると、イオニア諸都市はその支配下に入った(その際もパンイオニオンで集会を開いてペルシアへの対応を協議している)。紀元前500年、ミレトスの僭主アリスタゴラスはペルシアに対する反乱を企て、イオニア全土の反乱に拡大する。しかし大国であるペルシアの大軍には太刀打ちできず、紀元前494年にミレトスは陥落して鎮圧された。この反乱にギリシャの都市国家アテネが加担していたというので、ペルシアはギリシャ征伐を決意する。これがペルシア戦争になり、その様子はヘロドトス「歴史」に詳しいがここでは避ける。結局この遠征は失敗し、紀元前479年、ミュカレ山付近で行われた決戦でペルシアの敗北が決定する。
 この勝利でイオニアは一旦独立を取り戻すが、結局はペルシア帝国の宗主権を認めざるを得なかった。ミレトスは再建されたが、その際ヒポダモスが考案したという、道路を碁盤の目状に配する都市計画(=グリッド・プラン)が導入された。これは紀元前4世紀のプリエネ再建でも使われたが、僕の知る限り最古のグリッド・プランである(日本だと平城京・平安京や堺、札幌などがそうですね)。
 その後20世紀までこの地域はギリシャ系の居住地だったのだが、1920年代初頭のトルコ・ギリシャ戦争(トルコでは「独立戦争」と呼ぶ)の結果、住民交換が行われてギリシャ人は大陸部にはほとんど居なくなった。なお現代のトルコ語でギリシャ人のことを「ユナンYunan」というが、これは「イオニア」が訛ってペルシア語(「ヤウナ」)・アラビア語化したのを受け継いだものである。中東の人にとってもっとも身近なギリシャ人はイオニア人だったからである(フランス人がドイツ人のことをゲルマン人の一派であるアレマン族の名をとって「アルマーニュ」と呼ぶのと同じ)。

 えらく脱線したが、こうした歴史的背景のあるミュカレ山にあったというパンイオニオンの調査が今日の講演のテーマだった。
 今までパンイオニオンはオトマティック・テぺ(変な名前!)という遺跡に同定されていた。そこには小さなギリシャ式の奏楽場や城壁などが残されていたからである。ところがこの遺跡はどう見ても紀元前4世紀以降のもので、パンイオニオンがあったという紀元前6世紀まで遡れないという。ローマン教授はミュカレ山のあちこちを踏査して回った結果、標高750mのところにある場所で、崩れた城壁に囲まれた遺跡を発見した。
 そこでは紀元前6世紀の土器や、同じく紀元前6世紀のミレトスで使われていたのと酷似する瓦や鬼瓦(模様は鬼ではなくライオンの顔だが)を採集することが出来た。他の時代の遺物が拾えないこと、またミュカレ山には他にパンイオニオンの時代に合致する遺跡が見当たらないことからこの遺跡がパンイオニオンではないかと結論付けている。城壁には破壊の痕跡があり、これはイオニアがペルシアに対する反乱を起こした際(紀元前500~494年)に、報復としてペルシア軍によって破壊された跡ではないか、と推定している。海の神であるポセイドンの神殿が山の上にあるというのも変な話だが、ポセイドンに捧げられるのは牛であることから、小アジア土着の牛を聖獣とする山岳信仰(ヒッタイトなどがそうだが)と習合したのではないか、ということだった。どちらにせよ発掘はまだこれからなので今後の進展を待つしかない。
 それにしても僕らのやる(先史)考古学と違って、ギリシャ古典考古学というのはシュリーマンの頃みたいにホメロスの叙事詩「イリアス」やヘロドトスの記述を頻繁に引用するし、随分雰囲気が違うものだ。なんかかっこいい。




2007年01月30日

リビア砂漠 死の彷徨

 前回のエントリーの関連で。
 伝説のオアシス都市ゼルズラを発見したと信じたアルマーシ・ラースロー(「イングリッシュ・ペイシェント」の主人公のモデル)が次に目指したのが、紀元前524年にリビア砂漠(エジプト西部)で遭難したペルシア軍の痕跡を発見することだった。第二次世界大戦の勃発でその夢は叶わず、また現在に至るまで発見されていない。
 この「砂漠に消えたペルシア軍」についての記録は、紀元前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスの「歴史」による簡潔な記述しかない。以下松平千秋訳の岩波文庫版から当該箇所(巻3・26節)を抜粋してみる。


・・・アンモン攻撃に向かった分遣隊はテバイを発し、道案内人を伴って進み、オアシスの町に到着したことは確実に判っている。オアシスの町は・・・(略)、テバイから砂漠を越えて七日間を要する距離にあり、(略)。ペルシア軍はアンモンに達することがなかったし、引き返したのでもなかったのである。当のアンモン人の伝えるところはこうである。遠征軍はオアシスの町から砂漠地帯をアンモンに向かい、アンモンとオアシスのほぼ中間あたりに達した時、その食事中に突然猛烈な南風が吹きつけ、砂漠の砂を運んでペルシア軍を生き埋めにしてしまい、遠征軍はこのようにして姿を消したのである。


 「イングリッシュ・ペイシェント」でも猛烈な砂嵐で車が生き埋めになる場面があったが、5万もいたペルシア軍を飲み込むとは、砂漠の砂嵐というものはかくも恐ろしいものなのか。
 なおこの逸話は最近「カンビュセス王の秘宝」(ポール・サスマン作)というミステリー小説でも扱われている。僕は読んだことが無いが(ていうかさっき知った)、やはり消えたペルシア軍の遺跡を探す考古学チーム同士の競争が背景となっているそうだ。


 ペルシア軍が向かっていたアンモンというのは現在のシワ・オアシスにあたるという。ここにはアモン神の神殿があり、その託宣は非常に敬われており、ギリシャにまで聞こえていた(ギリシャ人はアモン神をギリシャ神話の主神ゼウスと同一とみなしていた)。
 ペルシア軍の遭難からおよそ200年後の紀元前331年2月、ペルシア軍を逐ってエジプトに入ったアレクサンドロス大王は、神託を得るためわざわざこの砂漠の中の神殿に赴いているのだが、そのとき神官に「神の子よ」と呼びかけられ、自己のエジプト支配の権威付けに利用していることからも、その権威のほどが分かる。
 またペルシアが滅ぼしたエジプト第26王朝の王墓はここにあるそうで(よく知らないがリビア系王朝なのかな?)、エジプト人に「セフト・アム(椰子の地)」と呼ばれていたアンモンを征服することは、エジプト支配を完成する上で欠かせなかったのだろう。
 もっともアンモン遠征軍を送り出したペルシア王カンビュセス(ペルシア語でカンブジャ)は、アモン神の権威を利用するのではなく、その神殿を焼き払うために遠征軍を送った、とヘロドトスは記しているのだが。

 アレクサンドロス大王はアンモンに向か際、ナイル河から西へ砂漠を突っ切ることをせず、いったん地中海に出てから海岸沿いに進み、そこから南下してアンモンに至ったのだが、なぜカンビュセスは派遣軍に無謀な砂漠横断をさせたのか。
 ヘロドトスの記するところではカンビュセスは「もともと気違いじみた性格で、冷静さを欠く人物であった」といい、このアンモン遠征や同時に行われたエチオピア(現在のスーダン)遠征は水や食料の補給をろくに準備もせずに踏み切った、という。
 カンビュセスは一代で現在のイラン、トルコ、イラク、シリアを征服したキュロス大王の息子で、父の急死を受けて紀元前530年頃に即位した二代目である。こう書くといかにも苦労知らずな人物が想像されるが、その他ヘロドトスがカンビュセスを気違い呼ばわりした所業として挙げているのは、
・ペルシアの掟に背いて実の妹と結婚し、あまつさえ身重になった妹を殴り殺した
・弟スメルディスを疑って殺した
・エジプト王の墓を暴いて遺体を焼き捨て嘲笑した
 (火葬はペルシア・エジプトいずれの風習にも背く)
・アンモンの神殿も焼き払おうとした
・エジプト人が崇拝する聖牛アピスを殺した
・近臣(元リュディア王クロイソスなど)を手討ちにしたり残虐に扱った
点である。

 ところがこうしたヘロドトスの伝える暴君像とは異なる記録もある。
 聖牛アピスを殺したというが、実際には紀元前524年の銘をもつ石碑が発見されており、そこにはアピスを拝むカンビュセスの姿が彫られている。聖牛アピスは滅多に居ないある特徴をもった牛で、エジプト人は神の顕現とみなすのだが、この石碑はカンビュセスがエジプトの風習を尊重していることを示す。
 実妹との結婚だが、これは古代王朝では「血の純粋性」を守るためとしてよく行われていたことであり、特別異常ではない。イランではペルシア人以前のエラム人にも見られるし、エジプトにもある。ギリシャ人はこの近親相姦を唾棄したが、のちにアレクサンドロス大王の部将からエジプト王になったプトレマイオス王家はこの風習を採り入れ、有名なクレオパトラ7世は最初弟と結婚している。兄弟殺しも、新しいスルタンが即位する度に兄弟が誅殺されたオスマン帝国などを見れば、とりわけ異様ではない。常人には理解できないが。
 またカンビュセスは紀元前525年にエジプトを征服したのだが、その際は砂漠で水を確保するためアラビア人と同盟したり、サモスなどギリシャ人と同盟して制海権の確保を心がけるなど周到な準備をしている。アンモンやエチオピア遠征の軽率さとは別人のようではある。

 エジプト征服直後のアンモン遠征とエチオピア遠征は大失敗に終わっている。エジプト遠征に比べあまりに拙速な行動や、ヘロドトスが描くエチオピア人の姿があまりに空想的(皆120歳の長寿を保つ云々)なことから、この遠征噺は作り事ではないかという説もあるらしい。
 ナパタ(スーダン)ではヌビア王の石碑が発見され(現在ベルリンの博物館に所蔵)、その中には「ヌビア王ナスタセンがケンバスデンのペルシア軍を破り、その船を全て奪った」という記述があり、このケンバスデンをカンビュセスと同一視し史実とする意見もあったようだが、ナスタセンは紀元前4世紀末にペルシアから独立した王らしく、時期が合わない。
 ヘロドトスによれば、カンビュセス自らが率いたこのエチオピア遠征は、準備が足りず無謀だったためたちまち兵が飢え(近代の太平洋にもそんな軍隊ありましたね)、ついには兵士が10人一組で籤を引き、当たったものが他の兵士に食べられるという惨況に陥り、やむなく退却したという。
 ついさっき検索で知ったのだが、藤子不二雄はこの話に基づいた短編漫画を作っているそうだ。


 このときカンビュセスは、アンモン、エチオピアと同時にカルタゴに対する遠征も企てていたとヘロドトスは伝える。カンビュセスは支配下のフェニキア人に命じてその艦隊でカルタゴ遠征を企てたのだが、そもそもカルタゴはフェニキア人が紀元前9世紀に植民して建設した都市国家であり、フェニキア人のサボタージュでカルタゴは難を逃れたという。
 もしこの時ペルシア帝国がカルタゴ遠征に成功していたら、その後のヨーロッパの歴史に与える影響は大きかったろう。カルタゴやフェニキアは、ギリシャやエトルリアを通じてヨーロッパに影響を与えており、ヨーロッパと西アジア(中近東)はより近くなっていたかもしれない。
 さらに想像すれば、カンビュセスのアンモン遠征はエジプトの完全支配というだけでなく、強力な海軍を持つカルタゴへの将来の遠征に備えた陸路行だったと考えられないか。またエチオピア遠征に成功して紅海ルートの打通に成功していれば(実際は紅海交易はローマ時代に最盛期を迎える)、ペルシア帝国は地中海からインド洋にまたがるローマ帝国どころではない世界帝国になっていたかもしれない。
 まあ騎兵に頼りすぎのペルシアの軍事力では、ギリシャも征服できなかったのだから(20年後のペルシア戦争)、いずれにせよ無理だったろうけど。

 現実にはアンモン、エチオピア両遠征の惨憺たる失敗後まもなく(紀元前522年)、本国で殺したはずの弟スメルディス(バルディヤ)が反乱を起こし王を名乗った。ヘロドトスによればこのスメルディスは偽者で、カンビュセスはこの偽スメルディスを討伐すべくシリアまで引き返したところで乗馬の際事故を起こし(腰の刀の鞘が抜け、足に突き刺さった)、その怪我がもとで急死したという。享年は分からず、彼には子がなかった。
 この偽スメルディスを倒したダレイオス(ダーラヤワウシュ)が王位を継ぎ、ペルシア帝国を磐石なものとするのだが、最近の研究では実はダレイオスこそが簒奪者であるというのが定説になりつつある。ダレイオスこそが、正当な後継者であったスメルディスを倒して彼を偽者扱いし、歴史を改竄してべヒストゥーン碑文に彫り付けたという訳である。あるいはカンビュセスの不自然な死も、スメルディスかダレイオスによる陰謀の結果によるものかもしれない。
 ダレイオスが即位直後に相次ぐ反乱の鎮圧に回らねばならなかったこと、カンビュセスの妹と結婚して血統上の正統性を主張したことなどがその傍証となる。そもそもペルシア帝国の創業者と二代目であるキュロスとカンビュセスは、赤の他人のダレイオスによって無理やり彼のアケメネス家の一員に組み込まれ系図を改竄された、という説さえある(本来「テイスペス朝ペルシア」だったものが、アケメネス朝に易姓した)。
 こうしてみると、カンビュセスが気違いじみた暴君だった、というヘロドトスの記録は、ダレイオスのプロパガンダを真に受けたものかもしれず、眉に唾してかからなくてはならない。またヘロドトスはエジプトの神官たちからエジプトの歴史を取材したのだが、カンビュセスがエジプト征服にあたり、神殿を尊重しつつもその旧来の利権を認めなかったため神官はカンビュセスを恨んでいたといい、だとすればヘロドトスは二重の悪意に影響されたカンビュセス像を書き記したことになる。
 もしかしたらカンビュセスは、ダレイオス、アレクサンドロスや始皇帝、クビライ、あるいはナポレオンやヒトラー(?)のような世界戦略を備えた気宇壮大な大王だったかもしれないが、力量も運も及ばなかったというべきか。

 カンビュセスの墓は故国のイランにあるとされるも長らく所在が分からなかったが(ヴァルター・ヒンツなどが推定はしていたが定説はなかった)、昨年12月イランのパサルガダエで、その廟に使われたと思われる石材が転用されているのが偶然発見されたという。



 June 24, 2007

 エトルリア人の起源

 歴史好きならローマ帝国を知っている人は多いと思うが、「エトルリア人」という民族を知っている人はそれほど多くないと思う。しかしながら、ヨーロッパの大部分を制覇したローマ帝国もかつてはエトルリアの属国で、その文化もエトルリアから多くを学んでいる(というか模倣)、といえば異様に聞こえるかもしれない。まさに「ローマは一日にしてならず」である。
 ローマ人は紀元前500年頃にはエトルリアから独立し、紀元前1世紀までにかつての支配者エトルリア人を征服してしまった。ローマ人たちはエトルリア人の痕跡をほとんど抹殺してしまったので、いまやエトルリア人は「謎の民族」になってしまった。ただギリシャやローマの史書にはエトルリア人がたびたび登場する。だからヨーロッパではエトルリアというのは結構知名度が高く、エトルリア学は早くもルネサンス時代に始まっている。


 エトルリア人は遅くとも紀元前8世紀には存在しており、イタリア中部のトスカナ地方を中心としていくつかの都市国家を営み、統一国家を持たなかった。紀元前6世紀頃、ギリシャ人やフェニキア人との交流をきっかけに興隆する。この頃の土器には彩文や把手の形態がトルコで出土するものとそっくりのものがあるが、これは東方様式化時代という同時代のギリシャ陶器の影響の結果である。
 海上交易に活躍したエトルリア人は、イタリア南部に入植したギリシャ人とやがて商売仇になり、カルタゴ(フェニキア人が北アフリカに建設した都市国家)と結んでこれに対抗する。紀元前540年、サルデーニャ島アラリアの沖でエトルリア・カルタゴ連合軍はギリシャ人と海戦し、ついに地中海西部の制海権を握り、その繁栄は絶頂に達する。上にローマへの影響について触れたが、アルプス以北に居たケルト人などはエトルリア人を通じて地中海(西アジアやギリシャ)の文明に触れており、ドイツやフランスの先史時代にもエトルリアは無縁ではない。
 ところが紀元前500年頃、支配下においていたローマ市が離反して独立し(共和制ローマの始まり)、紀元前478年にはナポリ湾のキュメ(クマエ)沖の海戦でギリシャ人に敗れてその繁栄に翳りが見え始める。紀元前4世紀には北方からケルト人が南下してきて荒らしまわり、エトルリアにさらなる打撃を与えた。
 その一方でローマはその勢力を着実に拡大し、エトルリアの都市国家は南から次々とローマに征服されていった。上記のように紀元前1世紀にはローマに完全に併合され、エトルリア人たちはローマに同化されてしまった。
 エトルリア人は華麗な壁画古墳や印象的な人形陶棺を残したが、そのうちチェルヴェテリとタルクイニアの古墳群は2004年に世界遺産に登録されている。また世界地図を見て欲しいが、観光地として人気のあるトスカナというイタリアの地方名は、エトルリア人のラテン語での別称「トゥスキ」に由来する。イタリア南部の海はティレニア海と呼ばれるが、これはエトルリア人のギリシャ語名「テュルセノイ」あるいは「テュレノイ」に由来している。

 ところでこのエトルリア人、ギリシャ人から導入したアルファベットを使っていたのでその残した文字を読んで発音することは出来るのだが、まだ解読されていない。彼らは自身のことを「ラセンナ」、転じて「ラスナ」などと呼んでいたことは判っているのだが、エトルリア語は言語系統が不明なのである。
 不明といえばエトルリア人の起源もよく判っていない。これは古代からすでにそうだったらしく、ギリシャの歴史家はさまざまな説を伝えている。紀元前1世紀の歴史家ディオニシオスが、エトルリア人はイタリア固有の民族であると伝えている一方で、著名な歴史家ヘロドトス(紀元前5世紀)はその著書「歴史」の中でエトルリア人の起源について以下のように伝えている(巻1、94節。訳は松平千秋による岩波文庫版)。

 
・・・リュディア全土に激しい飢饉が起こった。リュディア人はしばらくの間はこれに耐えていたが、一向に飢饉がやまぬので、気持ちをまぎらす手段を求めて、みながいろいろな工夫をしたという。そしてこのとき・・・(サイコロ遊びなど)あらゆる種類の遊戯が考案されたというのである。・・・さてこれらの遊戯を発明して、どのように飢餓に対処したかというと、二日に一日は、食事を忘れるように朝から晩まで遊戯をする。次の日は遊戯をやめて食事をとるのである。このような仕方で、18年間つづけたという。
 しかしそれでもなお天災は下火になるどころか、むしろいよいよはなはだしくなってきたので、王はリュディアの全国民を二組に分け、籤によって一組は残留、一組は国外移住と決め、残留の籤を引き当てた組は、王自らが指揮をとり、離国組の指揮は、テュルセノスという名の自分の子供にとらせることとした。国を出る籤に当った組は、スミュルナに下って船を建造し、必要な家財道具一切を積み込み、食と土地を求めて出帆したが、多くの民族の国を過ぎてウンブリアの地に着き、ここに町を建てて住み付き今日に及ぶという。彼らは引率者の王子の名にちなんで、・・・テュルセニア人と呼ばれるようになったという。


 「寝食を忘れて」とはいうけど、実際に出来ますかね?
 それはともかく、リュディアというのは現在のトルコ西部、スミュルナというのは現在のイズミル市(エーゲ海岸にあるトルコ第三の都市)にあたる。つまりエトルリア人は現在のトルコからイタリアに移住した者の子孫だというのである。そういやローマ市を建設したアエネアスも、トロイア(トルコ北西部)出身ということになってますな。
 ただし上記ディオニシオスはこのヘロドトスの記述に対して、リュディア人とエトルリア人では言語も宗教も違うので信じられない、とコメントしている。ただ現代の学問ではディオニシオスの主張を裏付けることも出来ないし、彼の時代にはエトルリア人はほとんどローマ化していたということも出来る。
 ローマ文明の起源にもつながる問題だけに、これについては長らく議論がなされてきたが、なにぶん考古資料を除いて歴史資料の少ない時代のことでもあって結論を見ず、起源そのものよりもむしろどのようにしてエトルリア人という民族が成立したのか、その過程に研究の興味は移っていた。

 ここでやっと本題だが、この起源論争に一石を投じる研究成果が先日発表された。古色蒼然としたこの問題に使われた研究方法は、DNA解析という最新技術を使ったものだった。
 トリノ大学のアルベルト・ピアッツァ教授を中心とする研究グループは、かつてのエトルリアの中心地であるトスカナ地方のムルロ、ヴォルテッラ、カセンティーノといった町に代々住む住民のDNAを採取し、イタリアはじめヨーロッパ各地の住民のDNAと比較した。この地の住民のY染色体はハプログループGに集中しているのだが(済みません、僕自身はなんのことやらさっぱり分からんのですが)、この特徴を持つ集団はイタリア国内には他にいなかった。似た傾向を持っていたのが、なんと現在のトルコに住んでいる人々だったという。
 エトルリア人のDNAに関する研究はここ数年すでに行われていて、イタリア・スペインの別の研究グループがエトルリアの遺跡から出土した人骨80人分のDNAを分析したところ、互いには非常に近いものの、現代イタリア人のそれとはかけ離れていることが判明したという。また現代のトスカナ地方の牛のミトコンドリアDNAを分析したところ、親縁性のある例はイタリアはおろかヨーロッパに全くみられず、中近東にあったという。
 これらの結果からピアッツァ教授らは、エトルリア人が小アジア(アナトリア)からイタリアへ移民したというヘロドトスの記述は信憑性がある、と結論付けた。牛については、テュルセノスに率いられたエトルリア人が最低限の家畜を連れていたためだろう、という。

 この記事を見たときは、ほう面白いな、とは思ったのだが、すぐに「ホンマかいな」と思うようになった。今のトスカナ地方の住民とエトルリア人を同一に見ていいのだろうか?
 イタリア数千年の歴史の中で、東方から多くの移民がやってくる時期はいくつもある。エトルリアののちのローマ帝国は西アジアにまで版図を拡大していたので、そこの出身者がローマ兵士としてイタリアに来ることもあったろう。また5世紀の民族大移動の時代には、ゲルマン人のほかアッティラ率いるフン族など、東方からさまざまな民族が到来した。現在だってトルコ人やアルバニア人がどんどん来てるんじゃないだろうか。
 まあ「エトルリアの遺跡から出土した人骨」というのだから、遅くともエトルリア人は東方と関係があったかもしれないが、この分析だけではこの特徴を持つDNAが「いつ」イタリアに来たのかは分からないので、エトルリア人よりもはるか以前、たとえば西アジアから農耕が伝わった新石器時代のカーディアル文化の名残り、と考えてもおかしくはあるまい。
 まあもう少し成り行きを見守ってみますか。

 ところでエトルリア人移民のエピソードは僕の専門にも無縁ではない。
 紀元前12世紀初頭にヒッタイト帝国などを滅ぼしてエジプトに襲来し、西アジアを混乱に陥れたという「海の民」にはいくつかの部族名が言及されている。「海の民」を撃退したエジプト王メルネプタ(紀元前13世紀末)の碑文には、「海の民」としてシェルデン、シェケレシュ、エクウェシュ、ルッカ、テレシュといった集団の名前が言及されるが、これはサルデーニャ、シチリア、アカイア、リュキア、ティレニアといった後世のイタリアからトルコにかけての地名に比定されている(異説もある)。繰り返すがティレニアとはエトルリア人のギリシャ語名である。またヒッタイト帝国の末期には飢饉が頻発していたことが文字資料から窺えるのだが、これとヘロドトスの伝える「18年に及ぶ大飢饉」は同じものか。
 飢饉に苦しみ新天地を目指し海に漕ぎ出したリュディア人たちは、エジプト経由でイタリアへ向かったのか?逆にイタリアからエトルリア人の祖先がアナトリアに向かったのか?それとも別の時代の全く関係ないエピソードなのか。あるいは数世紀に及ぶ文化交流(民族移動ではなく)を掻い摘んで述べたものなのか?あるいはアエネアスと同じく民族起源伝承の類なのか。
 出土する考古遺物でいうと、紀元前12世紀以前には該当地域ではいずれもミケーネ式の土器や牛皮形青銅鋳塊が出土するので、地中海で活発な交易網が形成され人的交流があったことは間違いないし、紀元前12世紀頃からは手づくねのブッケロ(瘤つき)土器という特徴的な土器が見られることも共通する。
 肝心のアナトリアとイタリアを直接結びつけるこの時代の遺物は今のところ見つかっていないのだが、興味は尽きない。

 Asia Etruscos sibi vindicat.(セネカ)



© Rakuten Group, Inc.